#MetropolisHachioji

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Twitterの白ハゲ漫画が『自滅社会』を創り出す

1 インターネットによる社会変容①

  〜SNSによる既存のオフライン集団の破壊〜 

 いまや、アラブの春に代表されるように、革命をも動かす存在となったSNS。そもそもインターネットが、時間あるいは距離という概念に対する破壊的なアプローチであることから考えれば、既存(=オフライン)にある『集団』という概念に対して、時間(同志を探す、コミュニケーションのタイムラグなど)や距離(居住地など)といった制約を取り払う発想は自然なものでしょう。

 ここでは『オフライン社会』から『オンライン社会』へ移行するに従い前提が崩壊した、『オフライン社会を前提としていた社会規範』について考えてみたいと思います。

 

2 前提崩壊に伴う社会変容②

  〜質的功利主義から量的功利主義への回帰〜

 端的に言えば、SNSによって形成された集団は『価値観に基づく社会集団』と言えるでしょう。

 量的功利主義 ー 最大多数の最大幸福

 質的功利主義 ー 満足な豚よりも不満足なソクラテス

  学校教育などにより、現在では、後者の質的功利主義を原則として社会が形成されています(といってもSNS時代以前のことですが)。幼少から「本は上でゲームは下」と教わり、それが通念化していることは、皆さんもお気づきかと思います。

  しかしながら、いま現在では「質的功利主義から量的功利主義への回帰」が発生していると言えます。

 

 

3 優劣判断の主体問題(多数決/経験的知識)

 なぜそんな現象が起きているのか。その原因には優劣を判断する主体の違いにあると考えます。

  量的功利主義における優劣判断の主体は『大衆』です。「最大多数の最大幸福」が価値基準となっているということは、大衆による多数決での判断が原則となります。

  一方で、質的功利主義における優劣判断の主体は『知的快楽を判断できる知識層』です。マズローの段階欲求説で言うところの上位の欲求を理解できて初めて、快楽の上下というものを判断できる、つまりは、そのレベルにまで知的水準が達していないと、質的功利主義における優劣というものは判断できないのです。

  ここで「質的功利主義から量的功利主義への回帰」に話題を戻すと、SNSによって価値観ごとに集団が再構築されたことで『(価値観においての)数の原理』、乱暴に言い換えれば『(価値観においての)数の暴力』が働くことになったのです。つまりは、「質的功利主義における価値観に抑圧されていた層が、『数の原理』の力で自分たちに都合の良い社会」を創れるようになったわけです。

 

 

4 少数者の逆転と弊害(可視/不可視) 

 わたしはこの近年の逆転現象に危機感を憶えています。

  一見すると、今までスポットライトの当たっていなかった社会的弱者にもチャンスが与えられ、より多くの人にとって住み良い社会が構築されるという明るい未来が推測されるかもしれません。しかし、「『数の暴力』が復権した」 ということは、「少数派の声が届き辛くなった」と言い換えることも出来ます。そして、その少数派とは、得てして『創造的破壊者』や『真の知識層』であるとも私は考えます。それだけ希有な才能を持つ人はそう多くいないからです)。

 

5 社会分断と再構築(サードプレイス)

  〜自由というジレンマ〜

 脈々と社会への影響力を強めているSNS社会は、「同質の価値観を持つ人が集まる集団(が集う場をサードプレイスと呼ぶそうです)」で構成される訳ですから、同質の価値観を持つ人が多いほど世論としての力を持ちます。裏を返せば同質の価値観を持つ人が少ない人には(彼らの主張の正当性に関わらず)世論としての力を持ち辛い訳です。

  似たシチュエーションとして、スティーブ・ジョブズがアップル社から追放された状況が重なります。破壊的創造者として、独断にも近い形でアップルを推進してきた彼ですが、ジョンスカリーら経営層との対立により同社から事実上追放されてしまいます。しかし、ジョブズ不在のアップルは途端に業績を落とし、やむなくジョブズの復帰を認めた、というのは有名な話です。多数派が良いと考えることが、必ずしも彼らのプラスになるとは言えない、とも言えるでしょう(もっともナチスドイツのような悪例もあることは事実ですが)。

  ましてアップルが迎えたのはペプシコーラの社長職からヘッドハンティングされるようなプロフェッショナルです。有象無象が数の力に任せてエゴ(といっては失礼ですが)を押し通した先に、必ず明るい未来があると言い切れるでしょうか?

 

6 すでに現実化している社会問題(?)

 

 こうしたことは、すでに日本でも始まっていると言えます。

 例えば昨今流行している、政治家の不倫スキャンダル問題。「政治家としての能力」と「不倫をしているかどうか」は論理的に無関係でありますが、いわゆる『ネット炎上』によって辞職を余儀なくされています(民主主義国家である以上、党にとってトカゲのしっぽ切りはやむを得ないのでしょう)。

 政治については疎いので詳細な議論は避けますが、もしも彼らが議員として今後も活動を続け、日本をよりよい方向へ推進していたとしたら、彼らの代わりに当選した議員が日本を悪い方向へ推進してしまうとしたら、果たしてどちらが大衆あるいは国民にとってプラスだったでしょうか?プロフェッショナルではなく、大衆が政治を動かすことが必ずしもプラスに作用するのでしょうか?(尤も、いまの議会に自浄作用や人を見極める技量があるのかは疑問符が残りますが、ここでは大衆による数の暴力におけるリスクへの指摘にとどめます)

   

7 結論:どうしようもない

  「SNSによる数の暴力リスク」は政治といった大きな規模のものに限らず、思想・趣向・娯楽など、SNSで語られる領域であれば、あらゆる側面で適応されうるものです(感情のはけ口で描かれたような心底下らない漫画がタイムラインに流れてくるのにはうんざりしていますが、「嫌なら見るな!」ではいまのSNS社会でやっていけないのです)。

 この大きな流れそのものを止めることは、

 

もはや不可能でしょう。変えることが出来るとすれば、それはきっと教育の領域なのでしょうが、それが難しいことは歴史が証明しています。せめて自分自身は『透明な嵐』に呑まれずにいたいものです(ユリ熊嵐見てね!ガウガウ!)。おしまい。

 

P.S.アクセス稼ぎにキャッチーなタイトル付けようとしている自分に失望...ガウ...

 

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NEW GAME!!に考える『満足した豚と不満足なソクラテス』『作品の善し悪しの定義』

 

①NEW GAME2期を見ての所感

 1期とPS4でリリースされたゲーム版(の実況配信ですが...)の双方に目を通しており、原作のコミックスは未読というわたし。所謂『日常系アニメ』として満足度が高く、現在放送中の2期についても視聴の一手ということで、現在拝見している最中(執筆時8話放送終了後)といった次第です。

 

 日常系アニメとしての魅力(キャラクターの掛け合いや作画など)を高いレベルで押さえつつも、1期以上にキャラクターの人間性が『いち人間』として作り込まれているように感じました。こうした点のクオリティにおいては、所謂『日常系アニメ』のなかでは、けいおん以来の完成度なのではないかと感じました。

 

 例えば、NEW GAME2期8話、ひふみが研修中の紅葉を気遣い、昼休憩時に自発的に声をかけるシーンでは、「頑張る女の子=かわいい」という日常系アニメお決まりのロジックに留まらず、「リーダーとしてチームを牽引し、自信の無い自分を変えたい」という、動機→行動が示されていることで、「自身の内面的葛藤と向き合う姿」という、もう一段階深い描写へと昇華させているように感じます。

 

 

②NEW GAMEと他作品との比較

 「あちらを立てればこちらが立たず」ではないですが、こうなると他作品の『粗』が気になるものです。disりたいわけではないですが、ここで、わたしがハマれそうでハマれなかった『アイドルマスター シンデレラガールズ』(以下デレマス)と比較をしようと思います(好きな方にはごめんなさい)。

 

 わたしがデレマスを好きになれなかったポイントとしては、キャラクターの性格・人格が、「オタクの顔色を伺ったような、表面的・打算的な性格/人格」に見えてしまった点です(あくまで『個人的な』意見です...)。具体的に言えば、そのキャラクターが「快活で野球が好き」になった転機や、「ロックが好きだと主張するが、その実はにわかロックファン」になった転機がさっぱり連想されないのです。もちろん深くそのキャラクターのエピソードを辿れば、その経緯が見えてくるのかもしれませんが、いかんせん「オタク受けの良い人格」が理路整然と・網羅的に取り揃えられているため、その経緯の「とって付けた感」がどうしても鼻につくのです。ソシャゲ発たる所以なのかもしれませんが、この「オタク受けからの打算感」が、どうしても安っぽく映ってしまうのです。

 

 

③「満足した豚より不満足なソクラテス

 そんな「作品の善し悪し」「作品の上下」を考えているうちに、そもそも「『善し悪し』とは何か」というところが気になってきました。「NEW GAMEはキャラクターがいち人間として作り込まれているから”善い”」「デレマスはキャラクターがオタク受けを起点に作られていて安っぽいから”悪い”」ってなんなんだろうと。事実、ほとんどのアニメにケチをつけ、不満を垂れ流しているわたしよりも、無条件にブヒれる大半のオタクのほうが幸せなように感じます。

 

 さて、19世紀イギリスの社会思想家J.S.ミルは「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。それと同じように、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い」という言葉を残しました。発言の意図するところとしては、自身が提唱した功利主義の説明に際して、「功利とは、肉体的・即物的な快楽だけでなく、精神的・知性的な効用も含めたものである」という説明の端的な例として挙げられたものです。詳しいことは以下の連載が平易にまとめられており、今回参考にさせていただきました。

善く生きるとは何か?①ソクラテスにおける魂の気遣いと知の愛求への道 | TANTANの雑学と哲学の小部屋

 

 この『NEW GAME・デレマス論争』に際する部分だけにおいて引用(前後のつながりの関係で一部を筆者が編集しています)すると

 

  • ソクラテスの言う「善く生きる」ということの核心には、自らの魂を善くするための魂への気遣いと、それをもたらすための知の愛求があると考えられる
  • 魂の気遣いは、知恵勇気節制正義といった人間の魂を善いものにするための徳の習得によってもたらされ、それぞれの徳の力が十分に発揮された時に、善く生きるという人間にとっての理想の人生の実現がもたらされると考えられる

  • 知の愛求は、そうした善なる徳についての知識を得ること、すなわち、善美なるものkalon kagathonカロン・カガトンについての知を得ること

  • ソクラテス主知主義においては、普遍的真理としての善なるソフィア)と善なる行動をもたらすアレテー)は一致する
  • しかし人間の知は、完全なる神の知へは到達し得ない以上、それは普遍的真理としての完全なる善についての知へ至ることもあり得ないと考えられることになります。そして、そうであるがゆえに、善く生きることと、その前提となる善なる徳の習得は、知の内容それ自体ではなく、知の学び方や求め方といった知の探究のあり方によってもたらされると考えられることになるのです。
  • 人間の生に善なる徳をもたらし、善く生きることを実現するためには、人から聞かされたことを鵜呑みにして丸暗記するだけの受動的な知ではなく、他者や自分自身の心との対話に基づく知の吟味と論駁によってもたらされる能動的で主体的な知こそが必要と考えられることになるのです。

  • 人間にとっての最大の善というのは、日々、アレテーについて語ること、また、私が自他を吟味するのを諸君が聞いたようなその他の事柄について語ることであって、そうした魂の探求なき生活人間にとって生きるに値しないものなのである。

 

根拠を割愛してまとめるなら、

 

「それが善であるか知ろうとする行為(=魂の探求/知の愛求)」によって 「徳の習得」が為され、それにより「魂の気遣い」が達成されることで「善く生きる」ことが実現される

 

ということでしょう(たぶん)。

 

 「善し悪し」の定義というところでは、あくまでソクラテスの主張というところに留まりますが、ソクラテスが亡くなって2000年以上経った今でも、この主張が支持されているという点を考えれば、ひとつの普遍性を持っていると言えなくもないでしょう(また、何が善くて何が悪いかの定義については、人間が不完全なものであるという前提から、各人に委ねられていますし、そういった柔軟性のある主張であることも普遍性を強化していますし)。

 

 

④作品の『善し悪し』における定義

 ここまで主張したことで、ひとつ『ソクラテス的なアニメの善し悪し』も定義付けできるようになりました。つまり「『知の吟味』が十分に為された作品であるか」です。

 

 これだけでは論理の飛躍となるので補足をすると、「①『創り手』という主体の善し悪しについて考えたときに、その創り手が『知の吟味』を十分に行ったのであれば、創り手は善く生きている人間である。そしてその瞬間、『創り手が善くあろうとしたか』という『善し悪し』の明確な基準が成り立つ。③つまり『創り手が善くあろうとした作品=知の吟味が十分に為された作品』は善い作品で、『創り手が善くあろうとしなかった作品=知の吟味が十分に為されなかった作品』は悪い作品だと判断される」といった論理が成り立つはずです。

 

 今回の一連の省察を経て、「『創り手が、そのキャラクターをより深く掘り下げたのか』『物語の都合ではなく、キャラクターが自然に持つであろう意志によって動けているのか』といった『知の吟味』が為されているのかこそが、作品の善し悪しを決定する」という当初の言説に確信を持つことが出来ました。

 

 尤も、その吟味が『より商業的にヒットしそうなキャラクターになっているか』であることも、知の吟味さえ行わないことも人それぞれだと思います。しかし、感動体験のため、知の吟味を徹底するクリエイターが一人でも多くいたら幸せだなぁと、これもまた個人的に思うのでした。おしまい。

 

『松本人志』を考える

 

初回はご存知、ダウンタウンの『松本人志』です。

わたしのイメージするまっちゃん像を共有したいので、まずは以下の動画をご覧いただければと思います。

 

www.youtube.com

 

表題を考えるにあたってのアジェンダは以下の通りです

 

 

①笑いの定義

コアコンピタンス

③競争戦略

 

 

_______________________________

 

①笑いの定義

 

ひとつの業界・市場が与えられている以上、その定義からくる「個人・組織が実行する要素」は限られてきます(野球というスポーツの定義上では、投げる・打つ・走る・守る、という要素しかありません)。

 

そして、それにより「すべきこと・しなくてもよいこと」が見えてくることで、「勝つべきところ・負けても良いところ」を決定することが出来るのです(野球においてすべきことは「投げる・打つ・走る・守る」という領域以外には存在しないのですから、「跳躍する・蹴る・殴る」ことに長けている必要は無い訳です)。

 

では、このお笑い業界の頂点に立つために「すべきこと」は何なのか。

 

まず、「笑う」という現象について、『スピーチ世界チャンプの魅惑のプレゼン術|ジェレミー・ドノバン、ライアン・エイヴァリー』では、ほとんどの笑いは、以下の3つに含まれると説明しています。

 

1)人は優越感を感じるために笑う

判断ミスをした人や風変わりな人を笑う場合など、ユーモアの多くはこのカテゴリーに分類されます。笑いの対象が、高い地位に就いていて、典型的な性格の人の場合は、更におもしろみを増します。

 

2)人は驚くから笑う

この種のユーモアにはあり得ない話、おかしなアドバイス、大げさなものまねやこっけいなものまね、皮肉、ダジャレや言葉遊び、体を張ったコメディー、誇張表現や謙遜する言葉を使ったジョークなどがあります。人は場違いなものに喜びを感じるのです。

 

3)人は強い感情をガス抜きしたいときに笑う

人は、笑うことで困惑や恐れなどの暗い感情を緩和させます。悲惨な状況を茶化すブラックユーモアは、その最たるものです。自分は死すべき運命だという恐怖心を頭から追い出すために笑うのです。

 

つまり「優越感を与える・驚きを与える・ガス抜きをする」ことが、笑いを取る上での「すべきこと」だと言えます(すべてを実行するわけではなく、この3つから取捨選択をするということです。優勝する野球チームが、必ずしも走攻守に長けている訳ではないように)。

 

 

コアコンピタンス

 

括弧書きで前述しましたが、では、この3つから何を選択すべきなのか。それを考える前に、一度「競争」の視点に立ち返りたいと思います。

 

競争における優劣は、もう一段階抽象化・一般化すれば、「競合との差異化」と呼べます。企業間競争における優劣で例えるなら、資金力の大小も「差」と呼べますし、ブランド力の有無も「差」と呼ぶことが出来ますね。

 

つまり、差があること・競合と違うことが、競争における優劣を決定する上での前提であり、したがって、競争における優劣は、他者と違うもの・ことの中にしか存在しないと言えます。加えて、その他者との違いは、模倣困難である必要もあります。模倣可能性の高い違いであれば、あっという間に競合に追いつかれてしまいますから。

 

さらに模倣困難性について付け加えると、そのルーツは「才能」と「経験」にあると(個人的には)考えます。

 

 

長々と書きましたが、要約すれば『経験と才能に基づく差異に基づいて競争戦略を立案すべし』ということです。

 

ここでの経験に基づく差異とは、「それなりの時間をかけることによって、あるいは経験の積(シナジー)によって培われる差異」のことを指します。取得に8,000〜10,000時間かかると言われる弁護士資格や、公認会計士資格とスペイン語スキルを併せ持つことといったものが挙げられます。競合が模倣しようとする際に、これだけの時間、あるいは特殊な体験がハードルとなることが重要です

 

また、才能の基づく差異とは、他の人よりも背が高い(バスケットボール)・独創的な発想力を持っている(ビジネスマン)といった、ほとんどの場合で、背伸びしても得られないような先天的なものを指します。また、幼少期の海外在留体験のような、年を取ってから・時間が経ってからでは得られない体験もこの中に含められるでしょう。

 

 さて、今回取り上げる『松本人志』の場合、彼における『経験と才能に基づく差異』は、ざっくり以下だと考えます(漫才やバラエティは好きで見ていますが、詳しく知る訳ではないのであしからず...)。

 

・緊張を生む、いままでの振る舞い(経験)

・気づきのセンス

・言葉選びのセンス(才能)

・優れた相方との出会い(才能)

 

などなど...

 

 

 ③競争戦略

 

『経験と才能に基づく差異』をスタートに、『優越感を与える・驚きを与える・ガス抜きをする』というゴールに向けた打ち手を設定することで、模倣困難かつ価値あるアウトプットを出すことができる

 

というのが、ここまでの総括であり、わたしが一番主張したかったことでもあります。では『松本人志』の場合において、これはどのように達成されたのか。ここでは、マクロな戦略ではなく、上で紹介した『ガキの使い』のコント(?)が、いかに『経験と才能に基づく差異』に起因するコントであるかの解説に限ったものにします。

 

 

 

 このコントは、「合格発表を見に行く」のに「受験をしていない」、「喫茶店で人を待つ」のに「待ち合わせをしていない」といった、常識や固定観念とは全く異なる主述の関係で構成された掛け合いを軸に展開されます。この掛け合いは、「優越感」と「驚き」、「ガス抜き」というゴールに対して、以下のような打ち手が隠れています。

 

優越感を感じる笑いは、このコント内で松本人志が演じるキャラクターによって生み出されています。風変わりな人物を演じる手法は、様々な漫才やコントで用いられていますが、松本人志の普段の顔を誰もが知っているからこそ生じる大きなギャップや、主述の不可解さを誰よりも深く理解できる思考の力(に基づく振る舞いや言い回し)によって、彼独自の笑いを作り上げています(例えばこれを他の若手芸人がやろうとしても、「普段から変な人なのかな?」とギャップが生じなかったり、理解が及ばないことで本筋とはズレた言動をしてしまうことで、彼ほどの笑いは生み出せないかもしれません)。

 

驚きを与える笑いは、「合格発表を見に行く」のに「受験をしていない」という、視聴者の予想と違う回答が出てくるところにあります(Wikipediaの定義によれば、驚愕の定義は「動物が予期しない事象を体験したときに起こる瞬間的な感情」だそうです)。この会話の”ずらし”を思いつき、それを漫才やコントを通して大衆にも理解・共感できるレベルにまで落とし込む技術こそが、彼の最大のコアコンピタンスであり、”らしさ”の根源にあるのではないでしょうか。

 

ガス抜きの笑いは、いわば「緊張と弛緩」にあると考えます。浜田が松本を過度に気遣うことで後輩(と視聴者)に向けて緊張を与えるなか、その状態で松本が、何食わぬ顔でおかしなことを言うギャップによって、その緊張が弛緩されています。このお笑い界において、二人が持つ危なっかしさに並ぶものはないんじゃないかと思います。それは若い頃から創り上げられたイメージであったり、二人の見てくれや芸能界での地位という、これもひとつのコアコンピタンスに起因しているのではないでしょうか。

 

このようにして、『模倣困難かつ価値あるアウトプット』を生み出すことが出来るのではないでしょうか......

 

というお話でした。おしまい。

 

 

 

追記:わたしの好きな芸人はロッチとかもめんたるです

 

 

 

 

やる

 

ブログやります

 

 

できるだけ具体的に人か組織を挙げて、競争戦略の側面で思ったことを書きます。

 

このあとすぐに、松本人志について書きます。

 

 

よろしくお願いします