#MetropolisHachioji

Twitter : @5anp | Tumblr : http://metropolishachioji.tumblr.com/

NEW GAME!!に考える『満足した豚と不満足なソクラテス』『作品の善し悪しの定義』

 

①NEW GAME2期を見ての所感

 1期とPS4でリリースされたゲーム版(の実況配信ですが...)の双方に目を通しており、原作のコミックスは未読というわたし。所謂『日常系アニメ』として満足度が高く、現在放送中の2期についても視聴の一手ということで、現在拝見している最中(執筆時8話放送終了後)といった次第です。

 

 日常系アニメとしての魅力(キャラクターの掛け合いや作画など)を高いレベルで押さえつつも、1期以上にキャラクターの人間性が『いち人間』として作り込まれているように感じました。こうした点のクオリティにおいては、所謂『日常系アニメ』のなかでは、けいおん以来の完成度なのではないかと感じました。

 

 例えば、NEW GAME2期8話、ひふみが研修中の紅葉を気遣い、昼休憩時に自発的に声をかけるシーンでは、「頑張る女の子=かわいい」という日常系アニメお決まりのロジックに留まらず、「リーダーとしてチームを牽引し、自信の無い自分を変えたい」という、動機→行動が示されていることで、「自身の内面的葛藤と向き合う姿」という、もう一段階深い描写へと昇華させているように感じます。

 

 

②NEW GAMEと他作品との比較

 「あちらを立てればこちらが立たず」ではないですが、こうなると他作品の『粗』が気になるものです。disりたいわけではないですが、ここで、わたしがハマれそうでハマれなかった『アイドルマスター シンデレラガールズ』(以下デレマス)と比較をしようと思います(好きな方にはごめんなさい)。

 

 わたしがデレマスを好きになれなかったポイントとしては、キャラクターの性格・人格が、「オタクの顔色を伺ったような、表面的・打算的な性格/人格」に見えてしまった点です(あくまで『個人的な』意見です...)。具体的に言えば、そのキャラクターが「快活で野球が好き」になった転機や、「ロックが好きだと主張するが、その実はにわかロックファン」になった転機がさっぱり連想されないのです。もちろん深くそのキャラクターのエピソードを辿れば、その経緯が見えてくるのかもしれませんが、いかんせん「オタク受けの良い人格」が理路整然と・網羅的に取り揃えられているため、その経緯の「とって付けた感」がどうしても鼻につくのです。ソシャゲ発たる所以なのかもしれませんが、この「オタク受けからの打算感」が、どうしても安っぽく映ってしまうのです。

 

 

③「満足した豚より不満足なソクラテス

 そんな「作品の善し悪し」「作品の上下」を考えているうちに、そもそも「『善し悪し』とは何か」というところが気になってきました。「NEW GAMEはキャラクターがいち人間として作り込まれているから”善い”」「デレマスはキャラクターがオタク受けを起点に作られていて安っぽいから”悪い”」ってなんなんだろうと。事実、ほとんどのアニメにケチをつけ、不満を垂れ流しているわたしよりも、無条件にブヒれる大半のオタクのほうが幸せなように感じます。

 

 さて、19世紀イギリスの社会思想家J.S.ミルは「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。それと同じように、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い」という言葉を残しました。発言の意図するところとしては、自身が提唱した功利主義の説明に際して、「功利とは、肉体的・即物的な快楽だけでなく、精神的・知性的な効用も含めたものである」という説明の端的な例として挙げられたものです。詳しいことは以下の連載が平易にまとめられており、今回参考にさせていただきました。

善く生きるとは何か?①ソクラテスにおける魂の気遣いと知の愛求への道 | TANTANの雑学と哲学の小部屋

 

 この『NEW GAME・デレマス論争』に際する部分だけにおいて引用(前後のつながりの関係で一部を筆者が編集しています)すると

 

  • ソクラテスの言う「善く生きる」ということの核心には、自らの魂を善くするための魂への気遣いと、それをもたらすための知の愛求があると考えられる
  • 魂の気遣いは、知恵勇気節制正義といった人間の魂を善いものにするための徳の習得によってもたらされ、それぞれの徳の力が十分に発揮された時に、善く生きるという人間にとっての理想の人生の実現がもたらされると考えられる

  • 知の愛求は、そうした善なる徳についての知識を得ること、すなわち、善美なるものkalon kagathonカロン・カガトンについての知を得ること

  • ソクラテス主知主義においては、普遍的真理としての善なるソフィア)と善なる行動をもたらすアレテー)は一致する
  • しかし人間の知は、完全なる神の知へは到達し得ない以上、それは普遍的真理としての完全なる善についての知へ至ることもあり得ないと考えられることになります。そして、そうであるがゆえに、善く生きることと、その前提となる善なる徳の習得は、知の内容それ自体ではなく、知の学び方や求め方といった知の探究のあり方によってもたらされると考えられることになるのです。
  • 人間の生に善なる徳をもたらし、善く生きることを実現するためには、人から聞かされたことを鵜呑みにして丸暗記するだけの受動的な知ではなく、他者や自分自身の心との対話に基づく知の吟味と論駁によってもたらされる能動的で主体的な知こそが必要と考えられることになるのです。

  • 人間にとっての最大の善というのは、日々、アレテーについて語ること、また、私が自他を吟味するのを諸君が聞いたようなその他の事柄について語ることであって、そうした魂の探求なき生活人間にとって生きるに値しないものなのである。

 

根拠を割愛してまとめるなら、

 

「それが善であるか知ろうとする行為(=魂の探求/知の愛求)」によって 「徳の習得」が為され、それにより「魂の気遣い」が達成されることで「善く生きる」ことが実現される

 

ということでしょう(たぶん)。

 

 「善し悪し」の定義というところでは、あくまでソクラテスの主張というところに留まりますが、ソクラテスが亡くなって2000年以上経った今でも、この主張が支持されているという点を考えれば、ひとつの普遍性を持っていると言えなくもないでしょう(また、何が善くて何が悪いかの定義については、人間が不完全なものであるという前提から、各人に委ねられていますし、そういった柔軟性のある主張であることも普遍性を強化していますし)。

 

 

④作品の『善し悪し』における定義

 ここまで主張したことで、ひとつ『ソクラテス的なアニメの善し悪し』も定義付けできるようになりました。つまり「『知の吟味』が十分に為された作品であるか」です。

 

 これだけでは論理の飛躍となるので補足をすると、「①『創り手』という主体の善し悪しについて考えたときに、その創り手が『知の吟味』を十分に行ったのであれば、創り手は善く生きている人間である。そしてその瞬間、『創り手が善くあろうとしたか』という『善し悪し』の明確な基準が成り立つ。③つまり『創り手が善くあろうとした作品=知の吟味が十分に為された作品』は善い作品で、『創り手が善くあろうとしなかった作品=知の吟味が十分に為されなかった作品』は悪い作品だと判断される」といった論理が成り立つはずです。

 

 今回の一連の省察を経て、「『創り手が、そのキャラクターをより深く掘り下げたのか』『物語の都合ではなく、キャラクターが自然に持つであろう意志によって動けているのか』といった『知の吟味』が為されているのかこそが、作品の善し悪しを決定する」という当初の言説に確信を持つことが出来ました。

 

 尤も、その吟味が『より商業的にヒットしそうなキャラクターになっているか』であることも、知の吟味さえ行わないことも人それぞれだと思います。しかし、感動体験のため、知の吟味を徹底するクリエイターが一人でも多くいたら幸せだなぁと、これもまた個人的に思うのでした。おしまい。